しょーしきのしょーしつてん

消失点を探そうと思います

幸福は洗脳

 幸福とはぁーなんぞやぁー? みたいな言い方を高校の時美術の先生がしていた。さすがは美術の先生というべきなのか、とにかく感性が独特というか、言いかえれば変人ということなのだが、私の抽象画を褒めてくれたりもしたのでまあ嫌いな人ではなかった。*1

 話がずれた。

 とにかく、幸福なんてものは教育の結果であり、言いかえれば洗脳によって構成される物にしかすぎないと前々から思っている。例えば明治時代、恋愛という概念が輸入され、同時に女子教育が始まったことにより、「理想の恋愛」というのは、教師と女子生徒の関係によるものだという形ができたりもした。これが実際に理想の恋愛かどうかはともかく、「理想の恋愛」として、初等教育を受ける子どもに擦りこんでいけば、将来的にはそれを理想だとする人間が出来上がる。反対意見を唱える者は排斥して、子どもの前に出さないようにすれば良い。

 こういう洗脳はとにかく日本中、おそらくは世界中で見ることができると思う。この洗脳が有効なのは、とにかく多数派を生みだすことができるのと、それに従った生き方をすれば多数派に認められる「幸福」を手に入れることができるからだ。現代の日本で言えば、「いい大学に入り、いい会社に就職し、持家を手に入れて、結婚して子供に恵まれる」みたいなのが、一般的な幸福だろう。

 だが、それにより失われる可能性を無視することはできないし、無視してはならないと思う。一般的な幸福を手に入れた人が、一般的な幸福を手に入れなかった人に対して「それは自分を誤魔化してるだけ」みたいなことをいう事例もよく見かけるが、本人でもないのに何故誤魔化してるなんてことをいえるのだろう? おまけにそういうことを議論していると「人それぞれ」でまとめようとする手合いもいるが、本来なら「人それぞれ」が前提で、その上で話を進めるもんじゃないだろうか。少なくとも、全ての人間が違う異常、人それぞれが根底にあり、何故相手が自分と違うのかを考えることがスタートだろう。
 
 無論、その一般的な幸福が悪いというわけではない。それだって立派な幸福の形であろうし、それを手に入れたくても手に入れられない人だっているんだから。だからといって、それを非難するのはおかしいだろう、という話。だからまあ、一般的で洗脳的な幸福なんか手に入らなくても、我々は何も絶望することはないし、自分が今立っているところが明日ほんの少しでも幸福であったらいいと、それでいいんじゃないのかと思う。