しょーしきのしょーしつてん

消失点を探そうと思います

夏が終わったということになっている

 インターネットでは夏になると死にたくなる人が増える。夏っぽい画像を貼るスレみたいなのが立ち、多くの人が海を訪れ、Instagramには空の写真が大量にアップされる。今頃は夏の終わりに聞く曲なんかが話題になっていることだろう。夏になぜ死にたくなるかは、人によって異なった原因があったり、インターネット上でなんとなく共有されていたりするものだろうし、あまり細かく考えるのもの面倒なので細かくはいわないし、よく分からないからいえない。
 ところで私は夏が嫌いだ。汗っかきなので、人前でやたらと汗をかく羽目になりかねないんだから、好きになる方が無理だ。服を脱ごうにも、汗が出るのは服をぬいでも変わらないし人前で脱げる服には限界がある。冬場はいくら服を着込もうが自由なのでそれがいい。第一、夏休みが31日までという文化も関東方面の風習であり、東北地域は夏休みが31日までないことも珍しくなく、人がいないのでラジオ体操のために集まるようなこともない。そういった事情があるのに、これぞ夏、これぞ夏休みといわんばかりの東京関東圏の意識にはうんざりなのである。
 とはいえ、私が夏に死にたい思ったことがないわけではない。まず夏休みが苦しいと思ったのは高3の夏休みであった。推薦だろうがAOだろうがとにかく国公立大学に進めという指導方針をとる我が母校でも、夏休みは受験の天王山だとか何とかいって、夏期講習だなんだと課題が大量に出た。もちろん私は真面目に取り組んでいないかったし、人並み以下にしかそういうことをやっていなかったのだが、これが本当に心臓に悪いかった。とにかくやりたくないものはやりたくないので、Jane styleとにらめっこする毎日だったのだが、それでも心のどこかで「こんなことやってちゃまずいんじゃねーか?」という意識があり、「それでもまあ、休みの終わりまでにはなんとなんだろ……」という意識も同時にあり、要するにやらなきゃならないしやった方がいいことがあるんだがそれでもやりたくないという意識がふつふつと育っていったのである。その意識は今や私の行動指針ぐらいになっているのであるが、そのころはまだ良心というか周りに合わせた一般的思考が存在しており、とにかくしんどくて仕方なかった。かといって、じゃあ飯も食ったし寝るまで勉強するか、といってそれが楽しくて、胸のつかえがとれて楽になるなんてことはこれっぽっちもない。それはそれで何でこんなことやってるんだ? と思うだけである。
 さてなにがそんな気分にさせているのかというのを考えてみると、夏はとにかく、周りに生命力(ちから)が満ちあふれているのがよくないのではと思う。蝉の鳴き声であったり、虻やら蚊やら鉢やら、とにかく虫はうるさい。朝にラジオをつけてみれば、ラジオ体操の全国巡回なんかもやってたりして、ラジオの向こうから元気な声が聞こえてくる。家が大きい道路に面していれば、バイクの集団が群をなして爆音とともに走っていったり、大荷物を積んだ自転車の姿も見る。学校が近くにあれば部活をする中高生の声や、プールに入る小学生の声も聞こえてくるかもしれない。幸い私は小中高生の声は聞かなくてすむようなところにすんでいたからそれによる損害はなかったものの、もし毎日聞こえてくるようだったら更にダメージを受けていたことは想像に難くない。
 無論当時の私がそれでもダラダラしたいし、そういったことに心動かされること自体が無駄だと思っていればそれで何事もなくすんだというはずであるし、今の私はだらだらして結果駄目だとしてもそれでいいんではないかとも思っているが、その頃はまだそこまで考えることができていなかった、という話。まっこと環境による洗脳は恐ろしい。
 そしてあの時、机の前でJane styleを開きながらこれでは駄目だと焦りながらもなにもしたくないあの感覚について、戻ってくる可能性が万に一つもないことを思うと、今の夏なりの死にたさが沸き上がってもくるというものだ。