しょーしきのしょーしつてん

消失点を探そうと思います

【黒ロン祭り2013】黒ロン考――反逆の証としての黒ロン

 黒ロンの日おめでとうございます。本年の黒ロン祭提出物です。
 
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 【募集】黒ロン祭2013 開催のお知らせ

 本当は2年前の奴を直し終わってる予定だったんですがさっぱりなので今回は反逆の証としての黒ロンという題でお茶を濁そうかと思います。タイトルに結論が書いてあるので真面目に読まなくても大丈夫です。

 Ⅰ 黒ロンの捉えられ方について
 
 初めにいっておくが、本稿では黒ロンを"伝統"や"清楚"の象徴としては扱わない。確かに、黒ロンが代表するのはそういった属性ではあるが、今回はそれとは別な視点から考えたい。
 まず、黒ロンという髪型は現実には少ない。何故かといえばおそらく次のような理由が挙げられるだろう。
 
 1.手入れが面倒である
 長い髪というのは手入れが面倒である。洗うのも乾かすのも一苦労だし、洗った後もきちんと乾かさなければたちまち痛んでしまう。無論、生来の髪質に拠るところもあったり、あるいは専属で髪の手入れをしてくれるような人間が身近にいればまた別ではあるが、一般家庭においては長い髪を綺麗に保つことは面倒であることは間違いないだろう。

 2."黒髪はダサい"という風潮
 これはいいかえれば染髪の一般化"でもある。染髪が一般的である以上、黒髪は目立つし、許可が出たのなら染髪するべしという意識が社会全体にあるといえるだろう。ただしこれは染髪が悪いというのではない。人の顔つきによっては黒髪よりも茶や赤が交じった髪の方が似合うという人もいるであろうことは考慮されねばならないだろう。

 3.男受けが悪いという風潮
 これは直接的というよりも結論として出てくる部分ではあるが、要するに前記の1,2のようなリスクを敢えて負っているような女性は何かしら一般的な人間ではない、という推測がなされるのである。もっとも、どんな関係の人間でも相手と全く同じ思考をすることは難しいのでその推測が正しいとは限らないのだが。

 4.勘違いされやすい
 これは3とは反対にオタク受けしてしまう、という問題である。自分にとって好かれたくない人種にも好かれてしまう、というのを良しとしないのであれば大きなリスクだと言えるだろう。

 ざっと考えただけでもこのくらいが挙げられるだろう。簡単にまとめれば「黒髪ロングという髪型をすることによるリスク・コストとリターン」が見合わない(と、感じられる)といえる。次の項では黒髪ロングの女性とはこのリスク・コストを敢えて受け入れるような人物だとして、それははどのようなものなのかを考えてみたいと思う。

 Ⅱ 黒ロンへの抑圧と反発
 上記の条件を満たしてもなお平然としていられる、あるいは、自分からそのリスクを負うことを望む人間がいるとしたら十中八九その人は"変人"の烙印を押されることになるだろう。大凡の人が求める、魅力的な異性と交際するという典型的な幸福からは格段に遠ざかるであろうし、恋人を作らないことは普通のことではないと人間的な欠陥があることを指摘されることもでてくるだろう。そう思われても構わないという人がいるとしても、そのように考える人というは少数派であり、世間の支配的意見から外れた地点にいる"変人"だとますます強く認識されるだけである。
 こういった現象について、世の常としてみるのもいいが、人の性質として"自分の属している物が多数派になってほしい"という意識があるのではないかと思う。これは"多数派に属したい"と願うのとはまた別のもので、もっと露悪的にいえば"少数派を排除して自分が多数派になる"という意識でもあるといえる。そのための犠牲として、1に上げたようなリスクやコストを負おうとしている人間があげられているのではないか、といいたいのである。すなわち、自分は多数派として行きたいから、君たちは少数派ということになって、認められない存在になってくれ、という意識を常に投げかけられているのが黒ロンの人々、といえるだろう。
 このような中では、黒ロンを維持しようとする人が少なくなって当然であるが、それでもなお黒ロンであろうとする人たちがいるとしたら、そういった人々は精神的にかなりの強さ、あるいは都合のいい鈍感さを持っているといってもよい。その人が黒ロンを選ぶ理由というのは数限りなくあるであろうから深くは立ち入らないが、己の主義主張を表す手段手法として、黒ロンが最適だとしても、実際にそれを選び、選び続けることは難しい。仕方なく諦める、というのが社会に生きる上での処世術としていわれている現代で、そういった精神を持った人はある意味で社会不適応者であり、何度もいっている通り"変人"である。しかし、その人が変人であることをよしとして、変人であり続けることを望む限り、その人は社会や既存の枠組みに対する"反逆者"となり得る。これはかつて不良の象徴が茶髪や金髪であったことの逆転現象でもあり、そういった時勢時流に対する反逆でもある。そしてそういった変人がどうしようもなく魅力を生むのもまた事実である。それは、黒ロンという方向性以外での変人による共感であったり、社会適応者が自分の中に無い物を求めている結果でもあるだろう。
 このような、自分の反逆精神の象徴として成立するのは何も黒ロンだけではない。次の項では、黒ロンからは少し離れて、黒ロンと同じような背景を持つ反逆の象徴を2点ほど挙げる。

 Ⅲ 変人たちが選ぶもの
 ここでは、簡単に2点ほど触れる。この二つはどちらも所謂変人御用達の物で、ともすれば、変人を気取りたいだけで後に社会適応者と成り果てる者や、心身の健康が保たれてない人とも親和性が高い。

 1.ゴスロリ
 ここまで読んでもらえれば分かる話ではあろうが、服装としてゴスロリ、ゴシック&ロリータを好んで選ぶ人間は黒ロンを選ぶ人間と同種だといってもいいだろう。それはゴスロリが海外では幼い子供に着せるものであり、成人女性が着るものではない、というのもさることながら"ゴスロリを着ている人間は変人"という意識に晒されることを耐えなければならないからである。人造美女は可能か? という本においてALI PROJECT宝野アリカが"ゴスロリは彼女たちの戦闘服"と述べていることも参考になるだろう。

 2.ニッチな音楽ジャンル
 はっきりいってしまえば平沢進と、平沢がタルボを愛用のギターとするに至った経緯と精神のことである。「ギターは嫌いです。あくまで仕事なので」とまでいう平沢だが、タルボだけは特別扱いしている。ロックをはじめとした反骨の音楽の象徴とされていたエレキギターがあまりにも一般化し、むしろ思考停止の象徴のようになっていると当時の平沢の目には映った。そんな中発売されたギター、タルボに対して、平沢直感的にこう感じた(らしい)。「カッコいい……故に売れないかもしれない」と。案の定タルボは売れなかった上、販売元も潰れた。だからこそ平沢は自分が正しいと確信し、自分の相棒的位置にタルボを置いているのである。……のようなことを書いてあるページが探せば出てくるので、詳しく確認したい人はそうしてほしい。また、この平沢進の音楽に影響受けたといっているのがALI PROJECT宝野アリカであることも一考に値するであろう。

 Ⅳ おわりに
 黒ロンがどのように扱われているか、そして何故そのように扱われているのか、そしてそのような扱いに対して黒ロンの人々はどうしているのかを簡単に述べてきた。いうまでもないが、これらの論述展開は何ら明確な資料に基づくものではなく、また、実在の人物がどのように考えているかを代弁したものではないことを改めて確認する。もっとも、Ⅱにおける抑圧の図式については黒ロンに限らずその他一般に通用する話ではないかと個人的には思っている。以上、"黒ロンは反逆の象徴"とする考察を終了する。

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