しょーしきのしょーしつてん

消失点を探そうと思います

かつて桜庭一樹信者だった

 かつて、というのは最近の作品をファミリーポートレイト、いや道徳という名の少年以降読んでいないからで今も信者といえば信者です。ばらばら死体の夜はハードカバーを買ってから積んでる。何で読まないのかっていうと、当たり前だが読んでてきついからだ。つまらないとか合わないとかではなくて、例えるなら普段よりも水割りが濃くていつもと同じような感覚で飲めない、というのが近いと思う。
 じゃあ何で濃いと感じるのか、といえば、桜庭一樹作品に特徴的に表れる「少女」という存在が、その実「(私がイメージする)少女」と「女以前」に分かれているというか混在しているので、後者に触れた時になんか違うな、と思ってしまうのではないか、という気がしている。無論桜場数汽笛にはその混在しているものを「少女」とおそらく認識しているのであろうなので、それに文句を言うつもりは無いのだけれど、それが私に合わないかもな、というのだから仕方ない。
 で、具体的にどのような作品が少女でどのような作品が女以前なのか、というのを簡単にまとめたのが以下。

 少女:
 「GOSICK」シリーズ 少女には向かない職業 砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない 推定少女

 ボーダー上:
 少女七竈と七人の可愛そうな大人

 女以前:
 荒野 私の男 赤朽葉家の伝説 ファミリーポートレイト

 と、一通りの有名作だけだがそんな具合に。女以前のところに荒野が入っているのが解って貰えると思います。私の男とか赤朽葉家、ファミリーポートレイトは子供が出てくるところが、ということで。回想とか毛毬の章とか。じゃあ製鉄天使も入れろって話ですか。
 
 こうやって分類してみると、作品としてどうかというよりも年代による違いなんじゃないかっていう気もしますね。私自身、違和感というか、なんかこれは違うものなんじゃないか? と感じたのが少女七竈と七人の可愛そうな大人赤朽葉家の伝説→私の男の三冊だったので、ここら当たりで結構登場人物の少女と女以前の違いがあるんじゃないかな、とかなんとか。特に、私の男のあとに出たのが単行本の荒野なので、その落差と共通点がもはや不気味なレベルにさえ思います。特に文庫版の七竈のラストに、野生時代の桜庭一樹のムックに掲載された乃木坂れなの短編が追加されたところからも、その証拠なんじゃないかなとか。

 結論としては、作品によって、というよりも年代が進むにつれ、少女というイメージに女としての役割的なものの潜在性が浮き出てきた、という感じですかね。
 ……そういえばブルースカイって本もありましたね。